父が亡くなりました。最後まで頑張った父

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いつもは私の乳がん患者としてのお話をしていますが、この記事では私の父の闘病について触れたいと思います。

父は2023年2月9日に亡くなりました。病院のコロナ対策のため、入院中は面会もできませんでした。

しかし、亡くなる2日前に病院から連絡があり、家族で面会に行くことができました。父は苦しそうではありましたが、母と私、弟たちと話すことができました。

最後に父と話せたことで、私たち家族は父の死を納得して迎えることができたと思っています。

人はいつかは必ず亡くなります。でも、人生の最後に大切な家族と過ごせた時間は、父にとっても私たちにとってもかけがえのないものとなりました。

肺が弱っていた父

父は昔からチェーンスモーカーでした。私は子どものころから「お父さん、タバコは体に悪いんだよ」と言っていましたが、父はタバコを止めることはありませんでした。

しかし、歳をとってから、肺炎を起こして入院。その後は気胸にもなり、タバコをスパッと止めました。

父なりに「このままではまずい」と感じたのでしょう。

定期的に病院で診察を受けていましたが気胸はなかなかよくならず、肺炎も繰り返し起こしていました。

だんだんと坂道を歩いたり、階段を上るだけで息切れするようになりました。私が父に老いを感じた瞬間です。

それでも体調のよいときは近所を散歩したり、体を動かすようにはしていました。いつまでも元気でいてほしいと心から願いましたが、父の老いは進んでいきました。

2022年10月肺がんが見つかる

2022年10月に健康診断で父に肺がんが見つかりました。私はその前から乳がんで手術や治療を受けていたので、父と「一緒に頑張ろうね」と話しました。

肺がんが見つかってからも父はあまり心の内を見せることはありませんでした。きっと不安だったと思いますし、これから先どうなるのかと考えていたと思います。

もともと肺が弱っていたため、父の肺がん治療は放射線しか選択肢はありませんでした。放射線をしてもがんが良くなるわけではなく、進行を遅くするための治療です。

放射線治療は35回。弟が車で父を病院まで送迎してくれることになりました。

我が家は2022年のクリスマス前から1月10日ごろまで、家庭内でコロナ感染。そのため、実家にもなかなかいくことができませんでした。

万が一、父にコロナなどの感染症をうつしてしまったら、取り返しがつかないと思いました。

2023年1月から酸素ボンベをつけての生活

父の肺はますます弱っていきました。普通にしているだけでも息が苦しくなる状態で、2023年の年明けからは酸素ボンベをつけての生活になりました。

酸素ボンベを使っていても動くと息が上がってしまうので、実家の母や弟はとても心配していました。私もそんな状態の父に何かウイルスなどを持ち込んではいけないと考え、実家に行くことを控えていました。

1月下旬、通常の病院の診察時に主治医から「即入院してください」と言われました。そのくらい、父の呼吸の状態は悪化していたのです。

父が入院したことは、母からの電話で知りました。母が「今回の入院がどのくらいになるかわからないけれど、もしも退院したら在宅で看取ることになりそう」と話していました。

その際は、私も実家の手伝いに行くことに決めました。父に残されている時間はあまりないのかも…と感じました。

しかし、父は退院することができませんでした。

2023年2月7日病院から電話

入院している父は、苦しいながらも1日2回、母の携帯に電話をしていました。母にとっては父と話すことで「今日も大丈夫だった」と安堵の気持ちを感じる時間でした。

ところが2月5日から父から母への電話はかかってこなくなりました。心配した母が私に「お父さんから2日間も連絡が来ない」と電話してきました。

何となく私も不安な気持ちを感じてすぐに実家へ行きました。母と話しているときに父の入院している病院から電話がかかってきました。2023年2月7日のことです。

看護師さんから父の容態が悪くなってきているので、家族はすぐに病院に来られるか?という内容でした。

母はすぐに仕事に出かけている弟たちに電話で連絡。弟の一人が帰宅するときに母と私と一緒に病院へ向かうことになりました。

母からは「kokoがいてくれてよかった」と言われました。私もその日に限って「今、実家に行った方がよい」と感じたのです。弟からも「お姉ちゃんが家にいてくれてよかった」と言ってくれました。

病院で父と面会

先に病院へ向かった母と弟、私は、すぐに父が入院している個室に案内されました。それまでは大部屋に入院していたのですが、もうあまり長くないと判断されたのか、2月7日に個室に移っていました。

父の話では「病院の都合で個室に移ることになりました。でも、病室代は大部屋のときと変わらないから安心してください」と説明を受けたそうです。

父は酸素マスクをつけていましたが、一生懸命話そうとしていました。「苦しくなっちゃうからあまり話さなくても大丈夫だよ」と伝えても、「koko、乳がんは大丈夫なのか?」と心配している様子でした。

少し父と話してから、主治医に呼ばれて今後の説明を受けました。

鎮静剤を使用することについて

主治医からは、今の父の容態について説明がありました。放射線治療でがんは小さくなったものの悪化していること。間質性肺炎を起こしていること。

間質性肺炎を起こすと、治療の手立てはないそうです。

父はすでに医療用の麻薬も使用しています。少しでも苦しみを和らげる方法として、鎮静剤を使用し、後は本人の生命力でどこまで持つかという話になりました。

鎮静剤を使うと話せなくなるので、もう一人の弟が病院に着いて父と話ができるまで待ってもらうことにしました。

もう一人の弟も無事に病院に着き、母、私、弟たちで父と少し話しました。父もみんながそろって病院に来ていることに不安感を持っていました。私たちは「個室になったから、特別に家族は面会が許可されたんだよ」と伝えました。

父は「そうなのか」と言っていましたが、おそらくは何かを察していたと思います。看護師さんが鎮静剤の点滴を用意しているときに、じっとその様子を見ていました。

看護師さんたちはいつもと変わらない様子で父に話しかけ、「今日はちょっと違う点滴を使いますね」と声をかけていました。私たち家族が立ち会う中、父に鎮静剤が投与されました。

鎮静剤を使っても聞こえている?

鎮静剤を使うと、父は眠そうに目を閉じました。主治医の話では、後は本人の生命力でどのくらい持つかということ。

私たちは、「お父さんがこれ以上苦しまない方法はこれしかなかったんだよね」と思っていました。

もう意識はないのかな?と思っていましたが、別の看護師さんが「〇〇さん、血糖値が高かったので、インシュリン打ちますね」と言ったとき、父が「はい」と返事をしていたのでびっくり。

お父さん、いろいろ聞こえている…と家族みんな驚きました。変なことは言えないと思いました。

その日は父のモニターが安定したのを見て、帰宅しました。翌日、また家族で父の面会に行くことにしました。

鎮静剤を使っても苦しむ父

前日の看護師さんから、面会は朝9時からできると聞いていたので、9時頃に病院に着くようにしました。ところが、実際の面会時間は午後2時から。

幸い、病院と実家が近いので、私たちは一度実家に戻ることにしました。

しかし、昼11時頃に病院から父の容態が急変しそうと連絡があり、急いで病院へ。私たちが病院に着いたときには父の容態も少し安定し、家族で父を見守ることにしました。

鎮静剤を使えば、スーッと静かに息を引き取るのかと思っていました。でも、実際は違いました。痛みや苦しみは感じるようで、父は動いてモニターの線や点滴が抜けてしまいました。

弟のうちの一人は、10年以上前になりますが、薬によるアナフィラキシーで入院したことがあります。そのとき、「いろいろ聞こえているし、酸素マスクをつけていても苦しいし、本当につらかった」と言っていました。

まさに今の父の状態はそんな感じだったのだと思います。私たちは「お父さん、苦しいね」「大丈夫だよ」と声をかけるだけで精いっぱいでした。

見ているだけでかわいそうで、早く苦しみから解放してあげたいと思いました。母も同じ気持ちだったようです。

父のモニターが安定するまで見守り続けました。帰宅したのは20時半を回っていました。私は何かあったときにために、実家に泊まることにしました。

2023年2月9日

2023年2月9日(木)の朝7時ごろに、病院から電話がありました。私たち家族はすぐに病院へ向かいましたが、着いたときには父はすでに亡くなっていました。

看護師さんから、「6時40分ごろから呼吸が少なくなってきたので電話をしました」と説明を受けました。

病室内には、父のモニターのピーっという音だけが鳴っていました。父の穏やかな表情を見て、悲しい気持ちよりも「お父さん、頑張ったね」という思いが強かったです。

母も弟たちも「よく頑張った」と父をねぎらっていました。

病室に医師と看護師さんが来て、父の死亡を確認しました。2023年2月9日7時29分でした。

父が亡くなっても穏やかな気持ち

父は本当に頑張ったと思います。亡くなる前日は苦しそうでしたが、少し話をしたときには、私たち一人ひとりのことを気にかけてくれました。

私は亡くなる前に父と話しができたこと、主治医が丁寧に説明をしてくれたことに感謝しています。実家の家族も同じ思いです。

特に毎日の放射線治療につき合っていた弟は、「お父さんが楽になれてよかった」と言っていました。

初めて自分の親を亡くしましたが、父と最後に過ごせた時間は一生忘れないでしょう。父が亡くなっても穏やかな気持ちで過ごせることに感謝しています。

父は最後まで父らしく生きたのですから。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今回は私の乳がんのことではなく、間質性肺炎で亡くなった父のことをお話ししました。暗い話かもしれない…と思いましたが、私は頑張った父の姿を記録に残しておきたいと考えました。

私はこれからも乳がん&パニック障害の治療を続けます。病気のことでは父に心配をかけたままだったので、少しでも元気になった私の姿を父に見せたかったです。

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